一晩目

 

 急に親父が切り出した。

「お前、ここに行ってみたくないか」

 

 

 その家はまさに昔ながらの日本家屋。少し古い木目がその年代をうかがわせた。

「ごめんください」

僕は呼び鈴がないので少し大きめな声で言った。

「…………反応なし。ごめんください!」

僕の声は、周りの人から言われているようにゴモゴモしていて聞こえにくい。このように何度も言い直すのは慣れている。

「あのー!」

「はい」

ピトリと肩に触れる冷たい手。夏の暑い日差しの中、汗がダラダラ流れていることから分かるように、この蒸し暑い中でこの冷たさは異常に思えた。Tシャツの上から氷の手で触れられた感じだった。

「シャルル……ですね」

僕の名前を呼び捨てにした女性は、その艶やかさに皆を卒倒させそうな人だった。髪は栗毛色で長く、少しウェーブのかかった感じは、まさに妖艶。着慣れた着物姿も美しく、駒絽のさらっとした布地は綺麗だった。

「蝉もよく鳴くほどお暑うございます。中へ入りませんか?」

そういうと女性は僕の手から荷物をとり、門をくぐった。

 僕はあとへ続いて門をくぐる。戸の隙間から見えた庭は思っていたより広かった。綺麗に刈られて整えられた感じは、そのときの僕にどんな気持ちを与えたのだろうか。

 少なくとも、門をくぐったときの違和感と、「もう戻ることがない」という残滓感とは違ったものだったろう。

 

 引き戸を開けて入った母屋は、所々くすみが出ていてて、やはり外観からの予想は合っていたことを示唆していた。しかし調度類は埃一つないことに驚いた。

「こちらですよ。あなたの部屋は」

玄関から居間へ通じるだろう廊下の初めのところの部屋だそうだ。つまり「玄関入って右の部屋」と言った所か。

 部屋は広く、家で自分に与えられていたものよりも大きかった。家具がこんなに並んでいるのに、まったく閉鎖的な感覚はない。

「部屋が狭くてすみません」

部屋を見回している僕に気づいたのだろうか。そんな謝罪が聞こえた。

「いえ、僕の部屋より断然大きいですよ。とっても嬉しいです」

にこりと笑顔で女性を見る。女性は手荷物を部屋の隅に置いた。そして笑顔で

「ここは、もうあなたの部屋なのです。好きなようにどうぞ」

と返した。

 そうか、そうだった。……もう、あの部屋には戻らない方が良いんだ。

 

 部屋の外の縁側より夕日が差し込んだ頃、ガラガラと玄関より音がした。

「たっだいまー」

一際大きい声で言った後、暫くの間沈黙が流れた。あ、挨拶しとかなきゃ。

 僕は身だしなみを整え、部屋から出ると、右側の廊下より台所からあの女性がやって来た。玄関を見ると、先ほどの大きい声の人だろうか。少し幼げな少女と、大人げな女性がいた。

「……誰よ。あんた」

幼げな方の子が喋る。かなりきつい印象が自分の中に焼きこまれている感じがした。

「あ、こ、こんにちは。僕は……」

「この方が今日からここに来てくれた方よ。家族なんだから、挨拶しなさい」

少し厳しい表情が窺える。少女はじっとこっちを見たあと、

「よろしく」

と一言言って階段を駆け上がった。

「ごめんなさいね。多分、私のしつけが悪かったの……。あとで厳しく言っておきますから、どうかお許しになってくださいね」

女性は平謝りだ。

「あ、大丈夫ですよ。慣れてるんで、気にしないでください。僕はひ弱に見えるから、特に……」

「……こんばんは」

僕の言葉を遮り、玄関のもう一人の右の目に髪がかかった女性が挨拶する。そうだ、いたんだっけ、もう一人。

「こ、こんばんは」

僕の顔をじっと覗き込む。まるで獲物に傷がついていないかどうか見る獣のように。やがて僕の後ろの女性に「ただいま」と小さい声で挨拶したあと、階段を登っていった。

 残された僕は酷い虚脱感に襲われた。全身から精気が抜けていくような、まるで血を吸われているような感覚だった。もう、この場で立ち続けるなんて、無理かもしれない。

 部屋に戻ろうとくるりと後ろを振り向いた瞬間、景色が波を描き、次の瞬間には床が見えた。

「だ、大丈夫ですか」

女性は僕の肩を瞬時に掴みとり、僕が倒れるのを阻止してくれた。きっとあのままなら顔から突っ伏してしまっていたことだろう。

「す、すみません……。ちょっと貧血かも……しれ……ない」

貧血は体育の時間に経験したことがある。運動能力テストのとき、短距離を全速力で走ったあと、周りの景色が黄色くなって足元がふらついちゃったんだ。それと、今の状態は似ているかもしれない。

「あまり無理はなさらないでくださいね。あなたはただでさえ光に弱いのですから」

……なんで……なんで、僕は……。僕は、いつから光に弱くなってしまったのだろう。

「……はい」

肩を担がれて部屋までたどり着くと、女性は僕を壁にもたれさせ、布団を敷きだした。まだ、夕方四時ぐらいだと言うのに。

「はい、敷けましたよ。どうぞ、おやすみになってください」

僕は促されるがまま、布団の中にもぐりこんだ。掛け布団をかけてくれた女性が、幻覚の中でお母さんに見えたような気がした。

「何で……、僕が光に弱いと知っているんですか」

そう、僕は光に弱い。そうなんだろう。もしかしたら夏の炎天下で直射日光を長時間浴びたせいかもしれないが、それ以前の問題で僕は光に弱かったような気がする。そうじゃなかったように思っていたが、そうだったのだろう。

「まるで……、お母さんみたいだ……」

疲れが一気に身体にのしかかる。僕は睡魔とも闘わねばならなくなったようだ。

 女性はそれを聞くと、にこりと笑顔を浮かべて言った。

「この家では、私がお母さんですよ。この家はあなたの本当の家、あなたの本当の家族が住んでいるのですから。私のことは、お母さんと呼んでくださいね」

ここは僕の家、僕の本当の家族が住んでいる……。この人が僕の本当のお母さん、で、今までのお母さんは本物じゃない……。授業参観に来てくれたお母さんや、小さなことで喧嘩したお母さん、ゴキブリを見つけると泣きそうな顔で逃げてくるお母さん、明るくて優しいお母さん……。それが全部嘘、嘘だったんだ……。

 僕の前の女性が、本当のお母さん。本当の僕のお母さん。僕は帰ってきたんだ、本当の家に。

「お……母さ……ん」

目じりに涙が浮かんでは流れた。枕に染みがつこうと、お母さんは笑ってくれる。きっと、笑ってくれるのだ。

「はい」

和紙で僕の涙をふき取ると、布団をかけ直し、もう一度笑みをこちらに向けた。

「今はゆっくりおやすみなさい。私の息子」

睡魔が僕に勝った瞬間だった。

 

 目が覚めると、数時間たった模様で、急いで寝汗をふき取った。丁度お腹もすいてきた頃で、夕食のいい匂いがしてきた。

 戸が開く。

「お食事の用意が出来ました。兄さん」

先ほどの大人びた女性がか細い声で話した。ハスキーボイスなのだろうか、所々掠れていたのだった。

 しかしもっと意外だったのは「兄さん」と言ったことだった。

「僕が……兄さん?」

コクリと頷く女性。その瞬間僕の中で何か記憶が蘇るような感じがした。そう……、この女性は妹……、僕の本当の妹……、一歳年下の妹……、名前は……翼。

「翼?」

「はい」

掠れた声がとても大人っぽく感じさせた。

「ご飯、できたなら食べようよ!」

居間から大きな声で少女の声が聞こえた。

「いいじゃん、いいじゃん。あいつなんて放っておいてさー」

その瞬間、バシンと凄い音がした。呼吸が止まった。

 翼が僕の目を見る。翼はどういう訳か驚いてはいなかった。

「兄さん……用意……」

どちらにしろ、ご飯は食べないと生きていけない。僕は翼の目までかかる髪の毛を撫でながら居間へと向かった。

「行こう」

 

 居間に着くと、もう既に食卓の上には色とりどりのおかずが盛ってあった。

「今日はあなたが帰ってきた日だから、少し奮発したんですのよ」

お母さんはそう言ってお茶碗に盛られたご飯を持ってくる。座席には少女ととてもいかつい男の人がいた。

「は、初めまして。あの、僕は……」

僕は咄嗟に頭を下げて自己紹介しようとした。社会適応能力という奴だった。強そうな人を前にすると、つい頭をすぐに下げて、声が弱々しくなり、たどたどしい口調になってしまう。

「そんなに頭を下げんでもいい。ご飯が冷めてしまう前に食べるぞ」

男の人は凄みのある声だった。僕の声が遮られた瞬間はヒヤヒヤだったが、その威厳のある声は非常に強い印象を与えた。

「そうよ。ここはあなたの家なんですから。さ、食べましょう」

お母さんはそう言うと僕と僕の右隣に座る翼にお茶碗を次々に置いた。翼の方をちらっと見たが、その無表情さには少し寂しいものを感じた。

 おかずはやはり豪華なものだった。色とりどりと紹介したけれど、その多岐にわたる広い色使いは今までの群を抜くものだった。

「……おいしい」

もちろん味もだった。ふと口に出た言葉は、本当にそう思ったからだ。

「あら、そう?どんどん食べてくださいね」

お母さんは満面の笑顔で言ってくれた。そのあとすぐにお父さんの顔を見ようとしたが、黙々と食べている様子で話しかけづらかった。

 僕も、食事を再開した。

 

 食事が終わり、僕は僕の部屋に戻ろうとすると、少女がかけてきた。少女の部屋があるだろう二階は、僕の部屋の前を通っていかなければならない。

「ちょっとちょっと!!」

強い調子で僕を引き止めた。僕はゆっくり振り返り、「何ですか」と丁寧に受け答えする。

 次の瞬間、思い切り頬を叩かれた。八つ裂きになるかと思うぐらいに皮膚が焼けるように痛かった。

「絶対にアンタなんて認めないからね。早く出て行きなさいよ!」

少女は、頬を押さえながらうずくまっている僕を見下ろし、ブツブツ呟きながら階段を登っていった。

 僕は頬をさすりながら立ち上がり、自分の部屋に入ろうとした。少し気が沈む。一方で僕を歓迎してくれる人がいて、僕はその柔和な感覚に身を任せることを望み、他方では拒絶する人がいて、僕はひと時の幻想から現実に戻される。ある意味では、流れに身を任せることを拒んでいる理性にとっていい刺激なのかもしれない。でも、やっぱり優しくされたい。ぬるま湯で育った自分は、冷水よりも無条件の優しさの方が良いのだ。

 部屋に入って明かりをつけ、扉となる襖を閉めようとしたとき、翼が前を通りかかった。「ごめんなさい」と一言呟いて。