二晩目

 

 朝は少し冷え込んでいた。掛け布団にしがみついていたらしく、くるくると簀巻きのようになっていた。しかし喉もとなどは汗をかいていて、寝巻きの首の周りが濡れていた。

 枕の近くの着替えを取る。着替えを素早く行っていると、襖を叩く音がした。

「シャルル……起きてますか?」

お母さんの声だった。

「はい。今起きたところで、着替えています。すぐに出ますね」

ズボンを持ち上げ、留め金を止める。チャックを閉めて、ベルトを通すと、ハンカチを入れて外へ出ようとして、襖を開けた。

「おはようございます」

そこには三つ指付いて挨拶する翼がいた。視界に何も写らなかったので下を向くと、頭を床に近づけていたのだった。

「ちょ、ちょっ!……お、おはようございます」

いきなり自分の身なりを確かめる僕。何やってんだろう……。

 すくっと立ち上がり、僕より少し低い身長から、上向き加減の視線を送ってくる。髪で覆われた片方の目はやはり見えなくて、見えている方の目を僕は見ることにした。

「朝食のご用意が出来ました」

無表情な顔と、無表情な声。やがて、これも僕を受け入れようとする流れの一部となるのだろうか。

 きっと、慣れれば問題はないのだろう。でも理性のどこかで、僕を夢から覚まそうとする何かが働いているのを感じずに入られなかった。

 

 僕の前の家では朝食が和食だった。パンはどうしても食べるのが遅くなるような気がしてならなかったからだ。それに、僕はパンがそんなに好きじゃない。それを知ってか知らでか、僕の朝食はご飯と味噌汁というオーソドックスなものとなっていた。鼻腔をくすぐる、味噌汁のいい匂いがしていた。

「……もしかして、パン食だったかしら?」

席に座って黙っている僕を見て、お母さんが心配した。

「いいえ、とってもいい匂いがしたので、少し楽しんでいました」

にっこりと笑顔で笑うと、お母さんは「ありがとう」と言って台所の片付けをしだした。あの男性が食べ終わったのだ。

「シャルル……と言ったな」

上座に座る男性が口を開いた。凄みのある声は、やはり僕の肩を震わせた。

「お前が前の家でなんて呼んでいたかは知らない。だから好きなように私のことは呼んでいいぞ」

口から出てきた言葉は意外なものだった。やはりこういう場合はその家庭に合わすべきだと脳が警告している。

「……ねぇ、翼……。翼は何て呼んでいるの?」

隣の翼に問う。向かいの少女には、やはり質問できなかった。現実に戻るのが怖かったせいかもしれない。

「…………父上」

翼は重い口を開いて言った。恥ずかしがっているのだろうか、少し無理に言わせたような感じがする。

「ありがとう。では『父上』と呼ばせていただいていいでしょうか?」

視線を変えて話す僕。男性はあごひげをさすりながらうなずいた。

「結構。では、シャルル。ゆっくり休むことだ」

僕が「はい」と言うと、父上は席から立ち上がり、書斎の方へと入った。それを見やりながら、僕は味噌汁を吸った。ワカメが浮いては沈む様子が、妙に引っかかった。このとき、なぜ「休む」と言ったのか分からなかったからだと思う。

 

 朝食を食べ終わったときには、軽く運動してやろうという気持ちが薄れていた。それはいつも怠け癖だろうと割り切ってみるが、少し納得がいかなかった。

 まるで病人のように、布団にもぐりこむと安心するのだ。それはさも母胎内に戻るかのように、暖かくて優しい心地よさなのだった。

時折顔を見せる翼はよく世話をしてくれた。僕が一人で寂しいだろうと思ってくれたのか、それともお母さんが言いつけたから行っているのかどうかは分からない。だけど誰かが横にいてくれるだけで、傍にいてくれるだけで、安堵感が心を包むのだった。

 

翼は僕の部屋に本を持ってきた。だが僕が本を読むわけではなく、翼本人が読むためのものだった。時々僕のほうをチラッと見ては、また視線を本に戻すのだった。暖かい温もり溢れる昼間の全てを、翼は僕の部屋で過ごしたのだった。

 少し訝しげな表情を見せると、すぐにまたもとの表情に戻る。それが4回、5回と連続するうちに僕は気になりだした。

「翼、どうしたの?」

翼は驚いた表情でこちらを見た。大きな円らな瞳をこちらに向けて。

「え……?」

「うん…と、なんか難しそうな顔してたからさ……その……どうしたのかなって」

その眉が上がった状態を直視した僕は、悪いことでもしているかのような気分になった。

「あ、べ、別に何もなかったら良いんだよ。言いたくなかったら…」

僕の声を遮って、翼が話す。

「いえ。兄さんにご迷惑はかけられませんので、それで…」

語尾が弱まる。本当に悪いことをやっているようだ。僕は謝ることにした。

「ごめん。言いにくいことを聞いちゃったね」

「いえ」

また翼と僕は、もとの作業に戻った。

 天井を眺めながら、所々に黒い染みのようなものがあることに気づいた。その染みは同心円状というか、一点から広がっているようだった。飛沫状のものが夜にでも動くような気がした。

(そんなことになれば、まるでお化け屋敷だよな)

そんなことも思ったが、ここが僕の家である以上、有り得ないと決め込んで、別のことを考えることにした。家のこと、お母さんのこと、翼のこと……、不思議と出てくるものは身近なものだけだった。

 沈黙の部屋の中、翼が口を開いた。

「兄さん、あ、あの……」

もじもじと喋りだす。まだ先ほどのことを気にしているのだろうか。

「なんだい?」

僕は出来るだけ言いやすいよう、笑顔を作った。

「お、怒りませんよね……?」

意外な言葉だった。視線を横にそらし、頬には少し赤みを帯びていた。

「こ、この、この文字……何ていう意味なんでしょうか?」

翼は本の中の文字を指差した。新書版の文字がいくら大きくても、視力の弱い僕では読むことは出来まい。そう思って枕もとの眼鏡を取ろうと、本を見ながら右手で枕もとを探った……。

(あれ……眼鏡なんてしてたっけ)

「えっとね」

その文字は「正夢」というものだった。なるほど、文章中でかなり多用されているようだ。それはそれで問題がありそうだが、ここは意味を教えよう。

「『正夢』っていうのはね、……うーん、何ていうんだろう」

頭をポリポリとかく。

「『夢が現実になる』っていうのかな……?そんな感じ」

「『夢』?」

翼は首をかしげた。もう少し詳しく説明してみようか。

「夜に見るほうの『夢』だよ。眠っている時に見る『夢』」

「眠った時に……『夢』を見るのでしょうか?」

「うん?」

なんか変なこと聞いてないか?翼。

「そうだよ。将来の『夢』とかは自力で叶えるものでしょ。眠っている時の『夢』は自力でどうしようもない。だけどそれが現実になっちゃうっていうのが『正夢』」

「……『夢』……」

翼ほどの年頃でも理解できないのだろうか……。というか……、翼って「夢」を見ない?

「ねぇ……?」

僕の声を遮って「ありがとうございました」と翼はぺこりと頭を下げた。

「うん」

何か引っかかるような気がしたけど、翼の心がスッキリしたなら別にいいだろう。

 

夕食の支度が出来たと翼は昨晩同様静かな声で教えてくれた。僕は掛け布団を静かに持ち上げて、上体を起こした。いつもは跳ね起きていたはずだが、どうもスローペースになってしまっているようだ。

部屋を出るとき、部屋の中の光景に違和感を覚えた。布団が増えているような気がしたのだ。僕が寝ている布団と、そしてもう一つ……。

 

 丸一日経った今でも、僕は浮遊した感触が否めない。あまりにも「自分の家っぽい」のだ。全ての常識が破壊され、再構築されていく。今までの環境が非常識に思え、現在が正当と見なす雰囲気。

 今までの自分との繋がりが全て消滅し、順応していく自分が怖い。怖い。怖い……。

 「誰か……助けてくれ」「これでいいんだ」「誰か助けてくれ」「これでいいんだ」……と何度も葛藤する。だけど結論はいつも決まっている。

 現在の僕が、本当の僕なのだ。

 

 夜、寝つきが悪くなった。うとうとと意識が沈むのだが……、すぐに目が覚めてしまう。今までこんなことはなかったのに。でも普通か……普通だな。そうだ、普通なのだ。

「ん?」

廊下で足音がする。ついでズルズルと何かを引きずる音。そして……研ぎ澄まされた五感を刺激するもの。

聴覚を刺激する、液体の滴り落ちる音。

嗅覚を刺激する、生臭い腐乱した匂い。

たまらず布団を跳ね飛ばし、襖を勢いよく開ける。廊下を疾走する。

 視覚を刺激する、闇夜に浮かんだ深紅。

 触角を刺激する、生暖かくぬめるもの。

居間の扉を開け放った。下を向き、息を整える。ゆっくりと顔を持ち上げた……。

 そして……

 

 何の不思議もないように僕には映る、光る六つの眼球――三対の双眸。

「あら、起きたの?」

お母さんだけが僕を見る。まるで哀れむような顔で。じっと、しっかりと、そして瞳の奥の炎を絶やさずに。

「お……か……さ…………」

「翼。お兄ちゃん、起きたみたいよ?」

翼は相変わらず貪っている。酷く陶酔しているようで、周りが見えていないようだった。衣服に色素が付こうと関係ないらしい。ただただ貪る、まるで獣のようだった。

「翼」

お母さんに左手をつかまれてやっと静止する。ぴたりと、「なぜ止める。なぜ止めるのだ」と言わんがばかりの厳しい目つきで。凍てついた目で母親の見据え、そしてその視界の中に僕がいることを確認した。

「……つば………」

口の周りを真っ赤にし、襟元は黒ずんでいた。焦点を失った瞳孔には僕が映り、怯えている姿だけがはっきりと見えた。足元には翼の口から垂れる唾液が小さな池を作り、鏡となっているのかもしれないと思った。

 どれだけ時間が経ったのだろうか。硬直した二人と、何度も繰り返し頭に響くピチャピチャという音は、永遠を感じさせた。次第に翼の焦点が定まり、僕の姿が彼女の黄斑に映り始めた。そして僕の姿を何度も反芻している。

「や……いや……」

「……ば」

正確な思考とはなんだろうか。どんなことを感じた時に、どんなことを考えれば、「普通」だと言えるのか。

「見ないで!!」

彼女は泣きじゃくりだした。

まるで己が運命を否定するかのように。

まるで己が使命を否定するかのように。

まるで……、己が存在を否定するかのように。

「あらあら、翼はまだ見て欲しくなかったのね。貴方の本当の姿を」

ふふ、と笑うお母さん。彼女もまた、口元に飛び散る鮮やかな赤を纏っている。

「それにしても順応性の高い坊やね。さすがにその系統なだけあるわ」

僕の前に進み出る。後ずさりをした。何か見てはいけないものを見たというのか。踏み込んではならない領域に足を出したというのか。居間の敷居を踏み越えた瞬間に、もう戻れないのだと諦めるしかないのか。

「うわぁぁぁぁぁ!!」

居間を仕切る扉を閉め、急いで自分の部屋へと廊下を駆ける。自分の部屋へと戻った僕は、襖を閉めて自分の体で扉のつっかえとなる。足音が聞こえる。どんどん近づいてくる。どんどん大きくなってくる。

 しん、と足音が止まる。汗は全身から出てきた。冷える。体が冷える。

ドンドンドン

襖が揺れた。ノックしているつもりなのだろうか。とてつもない衝撃が背中に伝わる。

ドンドンドン

また揺れる。何度も何度も揺れる。

「こら、開けなさい。シャルル、シャルル!」

ドンドンドン

きっときっと開けてしまえば同じだ。同じになってしまう。今まで侵食し続けてきた僕の体を、蝕んできた僕の心を、乗っ取ってしまう。乗っ取られる。

ドンドンドン

「こら、開けなさい。開けなさいってば!」

ドンドンドン

ドンドンドン

ドンドンドン

だめだ。開けたらだめだ。開けたら……!

ドンドンドン

ドンドンドン

ドンドンドン

頭を抱え、うずくまる。必死に襖を開けようとしている力をねじ伏せる。しかし途轍もない力が僕の背中を傷つける。何度も何度も何度も。

ドンドンドン

ドンドンドン

ドンドンドンドンドン……

ふと、静かになる。力の応酬が終わった。………終わった……。

ガンッ!!

襖の重なる部分に近いところから腕が飛び出てきた。赤く染められた手、爪の長い指。すべてが恐怖の対象。すべてが僕の脅威。

「グッ」

その腕が僕の首を掴む。軌跡が見えない。一瞬の動きだった。僕の首を、呼吸を止める必殺。

「ガッ……アッ……」

声にならない。声帯が震えない、振動しない。息が出ない、吸えない。手足をじたばたする。僕の首を掴む腕を必死にどけようとする。しかしその氷の腕に、異常なほどの冷たさに手が凍傷を起こす。指先からどんどん神経が破壊されていく。感覚を失うのはほんの数秒だった。もう、僕の指じゃない。僕の腕じゃない。

ドスッ!!

もう一個別の腕が、何か塊をもって現れる。そしてそれを僕の口元に近づける。鼻腔を刺激する生臭さ。鉄のような……嫌い……?嫌いなんかじゃないはずだ。嫌いなんかじゃない。僕の求めていた匂い……?

だめだ、思考までも侵食されていく。これは食べたらだめだ。だめなんだ。首が絞まっていくのをなんとかせねば。なんとかせねば……。

動かないはずの腕を無理やりに動かす。そしてもう一度首を絞める腕を……。

ドッ!!

無数の腕が僕のその試行を止める。羽交い絞めにされてしまったのだ。本当に身動きが出来ない。

「口を開けなさい」

お母さんらしき声がする。でもぼやけている思考のなか、口をぐっと閉めた。

ガスッガスッ!

もう一対の腕が飛び出る。そして僕の口を、顎を、顎関節を広げだす。

「アッアッ」

骨が軋んでいく。音がするのだ。ギシギシと、軋むのだ。

 程なくして僕の口の中に押し込まれる塊。生暖かくて、鉄臭くて、ぬめっていて、そして……欲しかった味。

「噛め」

「飲んでも構わないがな」

もう思考は止まっていた。眠りに付き始めていた。視界がぼやけ、ゆっくりと筋肉が弛緩していく。

 

 朝。ゆっくりと目を覚ます。布団から起き上がると、いつものように首を回す。

 五感がやけに鋭い。なぜか20km離れた民家の声がする。声が聞こえる……。

「気のせいか」

いつものように翼は起こしにやってくるだろう。それまでもう少しごろごろしていても構わないはずだ。妙に口の中で、胃から上がってくる感覚は気味悪いが……。

 味覚を刺激する、肉の蕩ける様な旨み。