第一章 曇り、所により俄か雨

 

 

 本日も、昨日から引き続き晴天なり――――。

 

 

  うつし世をば 離れて 天駆(あまが)ける日 来たらば

いよよ近く みもとに行き 主の御顔を 仰ぎ見ん

 

 願いを込めて。そう祈りを込めて。

 その幽玄なる歌声が教会にこだまする時、一対の翼が扉の前に降り立つ。

 きっと――そうきっと、その願いを聞きに来たかのように……。

 

 ガランゴロンと鳴り響く鐘の音を背景に、僕は少しも迷わずにその道を歩いている。鳩の溜まり場となっているところを邪魔せずに通り過ぎようとしたが、どうやらそんな気遣いは必要ないようだ。僕の気配を察し、バタバタと忙しそうに飛び立っていく姿を見て、ふっと笑みを浮かべる。右手に持っているものを背中に持っていき、鳥たちの軌跡の蒼空を意識の中で掴んでいく。

 そして、立ち止まる。大きい荘重な扉は複雑な魔除けのタペストリーが描いてあり、僕の終着点もまた、そこにある。一段ずつ階段を、一段ずつ影を踏みしめていく。ただ、そこにある真実のみを見つめながら。

 扉を開き、僕の姿の影が中央の道に映し出された。大きく僕の虚栄心を、濃く僕の感情を、そのまま映し出していた。

 豪華なステンドグラスの下に視線を移すと、祭壇の前に膝を折りながら美しい声を響かせている人がいた。僕が扉を開いたのに感づいたようで歌を一時中断し、こちらへ振り向いて大きく息を吸い込んだ。

 

 

 三年前。

 それはある晴れた日曜日。待ち合わせの時間まであと10分ぐらい。時計の針を正確に読めば、あと12分といったところか。携帯の背面画面を見てメールの着信がないことを確認し、君が来るだろう駅の方向を見やる。噴水越しに水の屈折によって朧になるだろう君の姿を探した。

 五分後、君がゆっくりとイヤホンを外しながら近づいてくる。そしてカバンにそそくさと直すと早歩きでこちらに来た。

「おーい、こっちこっち」

手を振って位置を示した。パッと君の顔が明るくなった。

「遅い?」

「全然」

「へへへっ」

悪ふざけをしたような子どものような雰囲気。ふと見ると……

「あ、この前買ってあげたもの、しっかり持ってきてんじゃん」

「うん、まぁね。だって結構使いやすいんだよ?」

「だって機能重視で買ったんだもん」

「ふーん」

好んで付けてくれているのか。それとも言葉どおりなのか。少しフクザツだ。

 

 今日のコースは友達に頼まれたものの買い物、スキー旅行の取り決め、夕食。

 指を折りながら今日の用件を確認した。なかなか覚えにくいのだ。どうもやることが多く、この頃は頭が破裂しそうだ。

「なにやってるの?」

「いいじゃん。マジに覚えられねぇんだってば」

「あははは」

「うるせぇ。ところで弟さんの方はどうなんだよ」

「うん……」

ヤバ……。あんまり言わない方が良かったかな。ストレス溜まってると思ったから呼び出したわけなんだけど……。

「どしたの?」

「……悪かった。言いにくそ……」

「いいのよ。気にしないで」

「そうだよな。その意気だ。さっさと買い物に行こうぜ」

ジュンの弟は白血病なのだそうだ。白血病――血液の癌と言われている。以前は不治の病として恐れられていたが、現在は骨髄バンクなどのおかげで治るケースが増えている。いや、治るはずなのだ。だが……、この子は血液に特異な部分があるらしく、ドナーが少ないのだそうだ。そして併発する病気。

「なっちゃんって何色が好きなのかな?」

 

 大型ショッピングモール。都市部の再開発によってできあがった次世代型アーバンシティー。超高層ビルにブランドストリート、色に溢れた人工の都市庭園。

 人間の作った造形美術にはどこか人間の臭さがあるものだが、これらにはその微塵も感じ取れない。近代芸術と呼ばれるものは抽象性を追及しすぎた無頼な骨格そのもの。ジュンがそう言っていた。僕もそう思う。

「こんなのってどう?」

ジュンは商品棚から木箱を持ってきた。木目調の静かなデザインは、賑やかな生活のアクセントとなるのだろう。

「開けたらまた箱が入ってるんじゃないのか?マトリョーシカみたいにさ」

「それじゃ最後は小さくなるじゃない」

「いいじゃん、『お前の心は小さい』って皮肉」

「えへへへ」

クスッとひと笑い。念のために言っておくが、なっちゃんの心は小さくない。

同じ棚には木目の綺麗な小物が並んでいたが、向かいにはスノードームがあった。すっと手を伸ばし反対に向け元に戻して鑑賞した。この雪が、手に触れることの無い雪が、どうしてこれまでに人の心を惹きつけてやまないのか。僕も以前、学校の合宿でお土産に買ってみたことがある。最後は埃に被ってしまったけど、一時期は夢中になっていたことがあったことを思い出させた。

「スノードーム?」

「うん」

「でもなっちゃんちってたくさんなかった?」

「あったね。そういえば」

「もー、真面目に選んでよ」

 結局ちょっと値の張る木目の写真の額を買った。ずっと使ってもらえそうで、ずっと思い出になりそうだから。

 

「ねぇ、早く早く!」

 ジュンははしゃぐように旅行代理店の前に置いてあるチラシを押し付けてきた。

「いろいろとあるからな。カニ料理とか含めると結構高くつくみたいだな」

「中入ろうよ!」

 カウンターに座ると、対応してくれるお姉さんが来た。

「すみません、こんな内容なんですけど」

すかさずポケットから友達から集めた案件をまとめ上げたメモ用紙を取り出した。走り書きだけど、伝えたい事はちゃんと書いてあるはずだ。

「はい、かしこまりました。少々お待ちください」

店員さんはにこりと笑ってその紙を手に持ちながら後ろのバインダーの置いてある棚に向かった。

 店員さんがいろんなバインダーを開いている時、彼女が口を開いた。

「私、本当は家なんか継ぎたくないわ」

「えっ?」

「もっとごく普通にみんなと楽しくしてる方がいいもの。ごく普通に就職して、ごく普通に結婚して……」

「ごく普通に子どもを生み、ごく普通に育て、ごく普通に余生を過ごし、静かに死を迎え入れる?」

僕が話を続けると、クスッと笑いながら最後に「ごく普通にね」と付け加えた。

「こちらのプランなどはいかがでしょうか?」

店員さんが持ってきたバインダーには表計算ソフトで打ち出したようなものが並んでおり一覧になっていた。

「ま、この辺で妥協しとくか」

指の指す欄のものは少しメモの内容と違ったが、大筋同じものだとして僕は提案した。すると……

「もう少し合うプランとか無いんですか?」と店員さんを困らせるようなことを言った。

「申し訳ありません。これらの要項を全て満たすことは……」

「まぁちょっとは我慢しようよ。足りない部分はまた行けばいいじゃない」

ジュンを宥めるのには時間がかかった。

 

 中途半端な時間になったので、先に夕食にしようということになった。雑誌関係者ということもあり、この辺の外食に関してはそこら辺の人より長けているという自信がある。

「何食おうか」

「今日はなんか疲れたから任せるわ」

「……あいよ」

僕はこざっぱりとした新しい店に入った。前に「新規店舗一斉紹介」などの記事で取材した店だ。

 店の中の豪華な装飾、その輝かしさがもう二度とジュンを照らすことは無かった。

「どうしたの?」

「ううん、何でもない。この店は新しいの?」

「そうだな。前に特集組んだ時に入った」

ソムリエがグラスにワインを注ぐ。その湾曲したガラスに屈折して映るクロスは、今の僕の心境を反映していた。

「なら味は大丈夫ね」

「俺の味覚を舐めるなよ」

クスクスと少し笑い、そのワインで乾杯した。

 もちろんメインディッシュの味なんて覚えていない。

 

 気がついたのは家まで送るときだった。家までもう少しだというところで、ジュンは何故か僕の肩に頭を乗せた。

 ふとドキリとしたが、そのまま歩き続けた。そしてある家の前まで来た時に、僕の額に額を重ねた。

「どうしたの?」

「ねぇ……自由に、どんな付加価値がつくのかな?」

唐突に、しかも哲学的な内容に戸惑った。「なんだろうな」というのが限界だった。

「それはね、……多分愛なのかもしれない」

「隣人愛(アガペー)?」

ジュンの家の上にあるものを見ながら言った。高校の倫理の時間にならったような気がした言葉を連ねられた。

「全てよ。そしてそれをキリスト教精神で歌うと『賛美歌』。仏教の場合、それと教書を重ねたもので『経典』」

彼女の言っている意味は理解している。だが急にそんなことを言う意義は理解できなかった。だからこんな言葉が口から出たのだと思う。

「なら歌ってよ」

先にも後にも最低な質問。僕には分かっている、それがどんなに残酷かということを。初めて出会ったときは何の違和感も持たなかったが、今日一日の行動を見て不審なる点がありすぎた。僕自身が意識しすぎた。

 そう、聞こえないのだろう。彼女の耳は、聞こえない――。

「もっとかがんで」

突然のことにこれもまた戸惑ったが屈んでみた。すると彼女の唇はそっと僕の額に口を押し当てられた。囁くように、そっと歌い始めた。

 

静けき祈りの 時はいと楽し 悩みある世より 我を呼び出(いだ)し

父の大前に すべての求めを 携え到りて つぶさに告げしむ

静けき祈りの 時はいと楽し さまよい出(いで)たる 我が魂(たま)を救い

危うき道より 伴い帰りて 試むる者の 罠を逃(のが)れしむ

静けき祈りの 時はいと楽し そびゆるピスガの 山の高嶺(たかね)より

ふるさと眺めて 昇りゆく日まで 慰めを与え 喜びを満たす

 

 歌が終わり、唇の温もりが額から離れる。僕の首筋には鳥肌が立っていた。

「どう?」

「とても綺麗だよ」と頬骨をつけながら話した。補聴器を通さずにこうすることで僕の素直な感想を伝えたかったのだ。

するとジュンは今までに見たことのない笑みで僕を見つめ、ゆっくりと教えてくれた。

「この歌はね、賛美歌310番『静けき祈りの時』っていう名前なの。かなりポピュラーな部類にあたるわ。どこかの歌手も大学時代、授業の終わりに必ず歌わされたってぐらいなんだから」

そして長い長いこの歌の歴史を、まるで糸のもつれを解くようにして教えてくれた。教会の扉がどっしりと僕たちの背中を支えている。

 

 口から出る白い息は、まるで小さな雪のごとく。

 はかなく、小さい粒子が一瞬にして周囲の気温と同化して消える。

 そして、君と僕との恋は、ここから始まったのだ。