第二章 晴れのち曇り

 

 

 昨日より少し暖かくなる見込みです――――。

 

 

 二年前。

 まだ吐く息が白く、肌寒いと感じられるこの季節。僕とジュンは買い物に来ていた。一年前、帰り道に発覚したこと。「あれから一年経ったんだね」という意味を含め、また同じところへ来ていた。

「ここは変わらないね」

「そりゃ人工物が勝手に動き出したら変だもんな」

そう、あれから一年経ったのだが、この景色、人の流れ、雰囲気は変わっていない。変わったといえば……僕とジュンが付き合い始め、そして僕がジュンへの第三のコミュニケーションをし始めたことだ。

「早く買い物しようぜ」

僕は少し指と手を動かして言葉の補助をする。ダクティロロジーと言われるものだ。つまり手話。

 補聴器を使ってもそれで全て聞き取れるというわけではない。ジュンの場合、中程度の聴力障害なため補聴器が必須になるのだが、このダクティロロジーは言葉の伝達速度の向上に役立つ。つまり聞き取りにくい音を無理に解釈させるより、これによって伝えたい内容を瞬座に理解させられるのだ。

「それにしても人多いよね」

「そうだな。……こんなかじゃ、俺たちはかなりの少数派さ」

「えへへへ」

どの意味での少数派かは分からない。ただぼんやりと「別のコミュニケーション」をする僕たちがいる。

 

 僕はなっちゃんへの誕生日プレゼントを包装してもらうべく、店員さんにお願いをしようとした。その時、

「あっ、すみません」

「いえいえ、こちらこそ」

背中に誰かがぶつかった。互いにペコペコ謝り、それで終わるはずだった。

「あ」

僕は一瞬、声を漏らした。なっちゃんがこの前別れた彼氏だったのだ。彼が僕の事を知らないのをいいことに、僕は「いえ何も」と愛想笑いでもってその場をやり過ごした。

 僕が浮かない顔をしているのを見て、案の定ジュンが聞いてきた。僕は最低限の事、「ぶつかった」という事しか告げなかった。だがそこは彼女、勘は鋭かった。

「なっちゃんに関係ある人?モトカレとかじゃないの?」

「……あぁ、そうかもしれない。人違いの可能性も」

僕はまだ動揺を隠せないでいた。別れた後のなっちゃんの顔が思い出される。

「もし違っていたなら貴方はそんなに沈んでなんかいないわ」

OK。当たってるよ、ジュンの言うとおりだ」

僕は観念し、全てを吐いた。どういう経緯で僕にあの人を知り、どういうふうに感情を抱いているのかを。僕はジュンの顔色を気にし続けた。暗くなったり、同情しているようであったり。

 結局、去年とはガラリと変えてテーブルクロスにした。前に欲しいといっていたものだったからだ。チェック模様は少し可愛らしく、暖色系で合わせたコップも買った。

「喜ぶかな?」

ジュンはそんな当たり前のことをわざとらしく聞く。「もちろん」と言い返すのが、今日は辛かった。

 

 次に僕らは手芸教室に向かった。ここは彼女の従兄弟が経営しているもので、幼少から親しかった彼女はよく遊びに行っているそうだ。今日、僕は彼女のピエロだ。

「あら、いらっしゃい」

その従兄弟――シオリというらしい――は笑顔で僕らを迎えてくれた。

「こんにちは」

僕も挨拶をすると、そのシオリさんは「ふふん」と笑ってジュンの肩をバンバン叩く。

「貴方も隅に置けない子ね。彼氏連れてくるとはいい度胸だわ」

ジュンは照れながら僕の方を見た。僕はというと苦笑いをしながら教室を見ようとした。

 この手芸教室はもともと子どものために作られたものだが、そのうちに専業主婦というものに疲れた女性たちが集う場所になったのだそうだ。教室の中には既に4、5人程度の女性が来ており、楽しく喋っていたところだった。

 ドアが開き、中にいる人と同じ年代の女性が入ってきた。ここの講習生だろうか。

「先生、こんにちは。あら、ジュンちゃんじゃないの」

その人はジュンの事を知っているようだった。

「いらっしゃい、アイハラさん。聞いてよ、あのジュンちゃんが男作ってきたのよ」

「ええぇっ、そりゃ凄いわ」

僕にはその言葉の後ろに来ていたはずの言葉が見えた。そう、「相手も大変よね」という言葉。

もちろん悪気などないことは分かっている。だが心に渦巻いてくる憎悪の感情はすぐには消せなかった。

その感情を消してくれたのはジュンだった。僕の腕をグイッと引っ張って、手で示した。

<出よう>

僕のことを気遣ってくれているのだろう。僕は素早く<怒らないのか?>と尋ねた。

 ジュンは首を振ってにこりと笑った。

<慣れてるから。別に彼女に悪気なんてないわ>

その笑顔に影があることは分かっている。ただ僕はこの純粋に慰めてくれる、沈めてくれる彼女の笑顔を信じようと思った。

 シオリも僕らのやり取りを横目で盗んでいたのだろう。奥の菓子箱からちょっとビニール袋に詰め込んで渡してきた。そして僕に耳打ちした。

「私とジュンの付き合いは長いからこんなこと慣れてる。まだ口に出さないだけマシ。あの子のこと、ちゃんと見てやってよ?」

そういってそのビニール袋を僕に突き出した。僕はコクンと頷いて、<ありがとう>と示した。

 

 ジュンの聴覚は先天性で異常だったわけじゃない。少なくとも彼女は大学に入る前まで聞こえていた。ただ聞き取りにくいといったことはあったようだ。腫瘍によってどこかの穴が塞がり、耳の中の空気が振動しなくなったためだという。

 先ほど言ったように、幼少時から聞き取りにくい障害があったため、近所の人からは疎まれていたそうだ。ただ近くに住んでいた従兄弟――つまりシオリ――がクラスの姉御的存在だったせいで、学校で虐められるといったことはなかったようだ。

 幼少時の言語形成する期間は聴覚が比較的正常だったため、言葉連ねるのは何の支障もなかった。よって一見すれば普通の女性に見えるだろう。だが年頃の女性が携帯も持たずにいる、その点だけが他の女性との違いなのだ。

 

 ジュンを家まで送るとき、ふと気付いたことがあった。

「なぁ」

「ん?」

振り返るときに長い髪がふわりと宙を舞う。そして正しい位置に戻り、その黒々とした鮮やかさはえも言わぬ優美さだった。

「ジュンって修道服とか着るのか?」

ジュンの家は教会だ。父親が高位階のイギリス国教会系の牧師だったらしい。

僕はジュンの普段しか知らない。それが偽りの存在であるはずもないのだが、去年のあの美しい声を思い出すと、清純な服をまとって歌っている姿を想像してしまうのだ。

「えぇ、もちろん。でも恥ずかしいわ」

その少し困った笑顔を見て僕は意見を取り下げるほかなかった。だが望みを捨てたわけではない。

「今度の日曜はミサがあるんだよね?」

「えぇ。だから来週はお預けよ」

「一緒させてもらっていいかな?」

僕は少し強引に意見を出してみた。これで断られたなら諦めようと思っていた。

「うーん……、多分いいと思うわよ」

「やった」

小さくガッツポーズを出す。その子どもらしい態度にジュンはクスクスと笑った。

 僕自身はパブテスマ(洗礼)を受けていない。だがミサに関しては別問題なのだそうだ。神は等しく人々を愛す――人種・宗教を越えて。

 

 「手ぶらでいいから」と言われたので何も持たずに行こうとは思ったが、やはりあるものは有効活用しようと家の本棚にあった聖書を持っていくことにした。

 ポケットに収まるサイズの小さな聖書。駅なので配られているものなので捨てようとは思ったのだが、タイミングを掴みそこねて結局家にまで持って帰ってきてしまった。

 これを偶然と呼ぶか、運命と呼ぶか。僕はそんなに占いとか信じないから「偶然」だと思っている。

 可愛らしい帽子を被った小さな子どもたちが僕を追い越していく。4人程度だろうか、ジュンのいる教会へと向かって走っていた。彼らたちは「日曜学校」なるものに来ているのだろう。僕が子どもの頃は「なんで日曜なのに学校なんて行かなければならないんだ」とひねくれていたのだが。

 足を止めた。そして目線を上に向かわせる。夜に送るとき以外見たことのないその大きな建物は、少し古めかしい印象を受けた。もちろん一番上には十字架が立っている。

 ドアを開けて中に入るとみんな椅子に座っていた。正面に大きなステンドグラス、その前のろうそくに火が灯っていた。

「いらっしゃい」

いつのまにか僕の後ろにいたジュンは、その質素で堅実な濃い青と清潔で曇りない純白の修道服を着ていた。胸元にはワンポイントアクセサリーでクロスが存在する。

「綺麗だ」

自然に出た言葉にジュンはにこりと笑った。

 やがてミサは始まり、賛美歌が歌われる。

 

 みんなが帰った後、僕は木製の椅子に座ったままだった。ゆっくりと彼女は近づいてきた。

「どうだった、今日は」

「不思議な気持ちだよ」

「そう」

彼女はじっとステンドグラスの方を見た。

「私はまだ恵まれている方なのかもしれない」

「どういうこと?」

「だって聴力障害持ってるのにさ、言葉話すのはそこまで苦労しないんだもの」

僕はうつむいた。そうするしかなかった、とその時は思った。

「だから私はこの仕事がとても嬉しい。私の仕事としてとても嬉しい」

果たして僕はそこまで自分の仕事に誇りをもてるだろうか。持てないに決まっている。

「『楽しい』じゃなくて『嬉しい』?」

「えぇ。だってこの仕事を与えてくださったのは神様なのだから。私は望んでここに生まれたわけでもないし、私の親だって望んで私を選んだわけじゃない。全ては主の導いた運命なのよ。だからこの運命を与えてくださって『嬉しい』と思うのよ」

彼女の目はあのステンドグラスの向こう側を見据えていた。強いまなざしで、その奥を捉えているかのようだった。

 僕は弱い人間だ。こんなにも素晴らしい人間の彼氏でなんかいる。

「そうだね。僕もそう思うよ」

こう言っている自分がどうしても情けない人間に思えた。

 彼女は歌いだした。その清らかなる声は、教会の中にこだまする。美しい響きはパイプオルガンの必要を感じさせず、くぐもった空気を打破するかのごとく、全ての静寂をなだめ始めた。

 やがて歌い終わり、にっこりと僕を見る。

「どうだった?」

「凄いよ。良かった」

その意見を聞いても彼女は真に笑いはしなかった。

「でも、普通の生活っていうのもしてみたいのよ」