第三章 雨のち晴れ

 

 

 昨夜から続く小ぶりの雨も次第に回復していく模様です――――。

 

 

 一年前。

 僕とジュンは買い物に来ていた。今年もなっちゃんの誕生日プレゼントを買いにこの場所に来た。

「あ、髪形変えたんだ」

「えへへ」

その長い髪をポニーテールでまとめてシニョンにした姿は、ショートカットの付き合い始めた頃を思い出した。

 女性は自分の変化を異性に気付かれるとよく喜ぶものだということを聞いたことがある。僕としてはその逆で、気付かなければ機嫌が悪くなるものだと思っていた。

 ジュンはこの一年で確実に口話を手に入れていた。口話というのは、相手の口の動き方で言葉を予測するものである。僕がダクティロロジーの教室に通っている間、同じ建物で開講されている口話の講義に参加していたのであった。

「まだまだ」

その貪欲な姿勢は尊敬に値すべきものだった。僕はというと一度投げそうになりもしたが、ジュンのため、ひいては自分のためもあって独学からこちらの教室に乗り換えたのだった。

 独学で幾分か覚えていたのも手伝って順調になじめた。そしてそのみるみる成長する僕を見て、ジュンはいつも笑顔で僕の頭を撫でてくれた。

 

 苦々しい経験も忘れはじめる頃、僕らはジュンの弟の墓前に向かった。バスで15分。小高い丘を越えて山なりのくねくねとした道を抜け、霊園と呼ばれる集合型共同墓地の前で降りる。

入り口でろうそくと線香を買う。そしてゆっくりと歩き始めた。

弟さんはこれも去年亡くなったお母さんの家の墓の中に入った。僕らが出会う前に、両親は離婚していたそうだ。父親側にジュンが、母親側に弟さんがついた。慰謝料もなく、円満に手続きは終えられたそうだ。

母親側に入った弟さんはもちろん仏教徒になったそうだ。といっても日本人特有の無宗教だが「家」のしきたりどおりに仏教にならって葬式をされたといった方がいい。

ジュンと弟さんはとても仲がいい。付き合い始めた頃からよくお見舞いに僕はついていった。弟さんは将来、僕のような雑誌記者になりたいと言っていた。だから就職するときには斡旋してね、とも言われた。僕としてもこの業界にすすんで就職したいと思っている人間が少ない昨今、このような情熱を持った青年は必要だとも思っていたため、もちろんだと引き受けた。

弟さんの容態は一時期、車椅子生活まで復活した。ずっとねたきりで、運動することが難しい体であったため、足の筋肉は驚くほどになくなっていた。

「たしか向かって左側の15番目で……、6列目だったかしら」

ジュンは弟さんやお母さんの眠る墓を確認した。僕はその手前で水を桶に入れる。片方で花を持ち、もう片方の手でひしゃくをその中に入れて持ち上げた。

 水の重さが、僕の心にものしかかっているのだろう。いつもより重い感じがした。

 ジュンはろうそくと線香を墓の台座の上に置き、僕を待っていた。僕は桶を置いて、花をジュンに渡した。

「雑草でもむしっとくぞ」

「うん」

1ヶ月も来なければ雑草は芽を出し始める。それを一つずつ丁寧にむしっていった。根こそぎ取ったとしても、ほんのわずかな破片から新たに現れてくる。その強大な生命力は、まるで生前の弟さんの生きようとする気力のようでもあった。

 ろうそくにライターで火をつけた。もうかれこれ数年はタバコを吸っていない。この頃は「持ち歩くこと」に安心感を覚えるようになっていた。そっと火が消えぬように台の上に挿し、線香にも同じように火をつけた。うっすらと白い糸のような煙が空へと向かう。昨晩の雨の影は全くなく、晴れ晴れとした青色が僕らを見下ろしていた。

「数珠持ってきた?」

「うん?あぁ、もって来たよ」

ひしゃくで桶から水をすくい、墓石にかける。汚れを少し落としてやり、誰かが置いていった缶ビールをゴミ袋の中に入れた。

 数珠を手にかけ、かがんで合掌。たったひとりの肉親を失ったときの気持ちは、誰も変わりはしない。

 

 バスに乗ってもう一度都心部へ向かう。背もたれに身を任せ揺られながら携帯のメールチェックをしていた。ふと横に座る彼女を見る。うとうと舟をこいでいる姿は、純粋な美貌を持ち合わせていた。

 弟さんが亡くなったときは動揺したものだった。一昨日見舞いに行ったときは元気だったのに……。僕自身もドナー検査を行ったのだがやはり適さないらしく、自分の存在意義について悲観していた矢先だった。

 そんな僕の姿を見て、

「貴方が悪いわけじゃない。あの子は短い人生を精一杯生きたのだから」

と反対に慰められた。もちろん彼女も時間を盗んでは陰で泣いていたことは知っていた。こんな時は僕が優しくするべきなのは分かっている。だからこそ自分が惨めに思えたのも事実だった。

 ふと横を見るともう目が覚めたらしい。僕を見て不思議そうな顔をしていた。「どうしたの?」

「何で泣いているの?」

「えっ?」

手で頬をさする。冷たいものが指に触れた。

「感慨ふけったりするからよ、柄にもなく」

「う、うるせぇ」

僕は少しふくれっつらを見せて涙をぬぐった。

時間で治る傷もあれば、時間で治らない病気もある。その逆もまた然り。

彼女にとっての障害は、彼女に「生きる強さ」を教えてくれるものだった。

 

 僕たちは少し余った時間を彼女の教会で潰すことにした。

 長いすに座って聖書を広げた。挿んであるコピー用紙を広げる。角などがよれて汚くなっていたが、読めない文字はなかった。

「あの歌を歌ってくれない?」

「あの歌って……、たくさんありすぎて困るわ」

パイプオルガンの前の椅子に座っていた彼女は苦笑いをする。

 僕は適当に「320番」と言った。題名は知らない。

 彼女はダクティロロジーで確認をして、大きく息を吸って歌い始めた。

 

主よ、みもとに 近づかん 登る道は 十字架に

ありとも など 悲しむべき 主よ、みもとに 近づかん

さすらう間に 日は暮れ 石の上の 仮寝の

夢にもなお 天(あめ)を望み 主よ、みもとに 近づかん

主の使いは み空に 通う梯(はし)の 上より

招きぬれば いざ登りて 主よ、みもとに 近づかん

目覚めて後(のち) 枕の 石を立てて 恵みを

いよよ切に 称えつつぞ 主よ、みもとに 近づかん

 

「今日はここまで続きはまたね」と言って歌を途中で止めた。「全部終わったら最後まで歌ってあげる」

 

 ジュンが予約した時間にぴったりと着いた。

 看護士さんに名前を呼ばれ、返事をした。

「付き添い、行こうか?」

僕は不安になって尋ねた。でも、彼女は目を閉じてゆっくりと首を振った。

「そうか、分かった。どんな結果でも、大丈夫だから。あとで全部話してくれよな」

片目でウィンクして、指でOKサインを作られた。

 彼女は看護士さんに連れられて、奥の廊下へと歩いていった。

 彼女のいなくなった横のソファーは、少しだけ間を空けて別の誰かが座った。

 

 その晩、彼女は洗いざらい話した。僕も洗いざらいぶちまけた。今までのこと、これからのこと、そして今現在のこと。

 彼女は現在の最高の医療技術によって聴力障害となっている腫瘍を切り取れば聴力は回復するかもしれない。ただそれには放射線治療ではなく開頭手術が必要であり、世界でも成功した例は少ないという。

 本当は彼女が変わることが怖いのかもしれない。その手術の成功率よりも、変化する自分の一部に恐怖感があるのかもしれない。そう、自分の一部、自分にとって大きすぎる存在なのだ。

 もちろん彼女の意見は尊重してやりたい。彼女が喜ぶことは僕にとっても嬉しいはずだ。だが……。

「分かったよ、俺の負けだ」

どこかで僕を蔑む声がする。それは僕自身だ。僕自身の弱さに、僕自身が失望したのだ。

 布団を被りながら僕の存在を考えた。

 僕は彼女が弱いことを前提にこうして活動している。どこかで僕は彼女のことを馬鹿にしていなかったか。彼女のためを思ってやったことは、どこかで僕自身のためにやったことでなかったか。

 涙が止まらなくなってきた。

 今度は違う。彼女がどこか遠くへ行ってしまいそうだから。僕の手の届かないところへ行ってしまいそうだから。

 

 

 そして今日。

 

 タイル張りの地面は昨晩の雨を物語っており、所々濡れている場所があった。並木道に車は少なく、路上駐車も見受けられない。木々の間から漏れる陽の光が、淡いスリットとして歩く人たちを照らす。

 一陣の風が抜ける。葉同士が擦れ合い、ザワザワと音を出した。

 その風から花を庇いながら、僕は歩いている。向こうにそびえる、大きな館――――教会へと。

 子どもたちが日曜学校へと駆け抜けていった。「今日は僕が一番だ」と大声を上げながら、歩道にいる少ない人々の間を縫って。僕はその姿を見て、「いってらっしゃい」と小さく言った。一人の少年がその声を聞いたのか、立ち止まって僕の方を見た。

「おい、先行くぞ!」

前に走っていた少年が立ち止まった子に言う。その子は「う、うん。待ってよ」ともう一度走り始めた。

 教会の前で僕は立ち止まる。すぅっと息を吸い、その大きな扉を思いっきり押して開いた。扉を開くと後ろに付けられていたベルが鳴った。リリン、リリンと高い音色を出していた。

 ステンドグラスの前には修道服を来た女性が膝を折っていた。僕が入ってきたのを感知し、歌声を止めた。

 僕は中央の道をゆっくりゆっくりと歩く。そして後ろにやった花の縛り口をぎゅっと握った。

 やがて僕は立ち止まった。女性はくるりと向きを変えて、立ち上がった。ぼくよりも少し低い身長だった。

「いらっしゃい」

女性がゆっくりと目を開く。そして見上げる。

「おはよう」

そしてにこりと笑った。僕は花を前に持ってきて渡した。

「まぁ、綺麗な花」と、大きく息を吸って匂いをかいでいた。僕はその姿を微笑ましいと思った。

 女性は花を長いすの上に置いて、こちらに向き直った。

「それで、今日はどんなご用件で?」

「お届けものと歌の続きを聞きに来ました」

贖罪をしているかのようにかしこまって言った。そしてその後に僕は小さな小箱を彼女の手に握らせた。

 彼女がその小箱を握ったのを確認すると急に抱き寄せた。「きゃっ」と短く声を上げて僕を見た。

「もう強引なんだから」

唇を彼女の額に触れさせる。そして振動を与えた。もうそうやって話す必要はない。だけど、僕はそうしたかったのだ。

「好きだ」

 

 

明日もまた晴れますように――――。

 

 

Time Goes By」【完】